偉大なる日本人に学ぶ

【リーダーシップとバイタリティの人:「伊藤博文」】《平成30年9月掲載》

初代内閣総理大臣として近代日本の基礎を築いた伊藤博文は1841年、現在の山口県光市で農家の長男として生まれました。

勤勉だった父は、その人柄を見込まれて長州藩士・伊藤家の養子となり、博文も利発さを見いだされて勉学の機会を与えられると一時は松下村塾にも籍を置きました。木戸孝允らと攘夷運動に参加した博文は、ここでも頭角を現します。その後、長州藩家老の計らいで、22歳の頃に井上馨らとイギリス留学に旅立ちます。当時のロンドンは港には蒸気船が停泊し、街中には工場が建ち並び、蒸気機関車も走っていました。近代文明を目の当たりにし圧倒された博文は、日本国内で攘夷にこだわる愚かさに気付き、開国して日本の近代化を目指そうと考えを改めたのでした。26歳で大政奉還を迎えると、実力を買われてその後も順調に出世道を進み、27歳で初代兵庫県知事、30歳で岩倉使節団の副使として渡米、44歳で初代内閣総理大臣に就任します。理想の国作りに向けて、国家予算や議会制などを盛り込んだ大日本帝国憲法の起草も手掛けました。60代で活動の場を韓国に移すと68歳で凶弾に倒れるまで、強いリーダーシップと驚異のバイタリティで働き続けました。

「人は誠実でなくては何事も成就しない」という博文の言葉からは、国の未来を思い真っすぐに情熱を注いだ様が感じられます。

【向学心と人情で開いた国交:「ジョン万次郎」】《平成30年8月掲載》

幕末にアメリカで教育を受け、幅広い知識を伝えて日本を開国に導いたジョン万次郎は1827年、現在の高知県土佐清水市の貧しい漁師の家に生まれました。早くに父を亡くし、一家の大黒柱となったため若い頃から漁船にも乗るようになりました。14歳で延縄(はえなわ)漁船に乗った際、暴風雨により遭難し伊豆諸島南部の無人島・鳥島に漂着しました。幸運なことに、万次郎一行はアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救出され、寄港したハワイで落ち着き先を世話してもらえることになりました。

しかし、万次郎の賢さや機敏さに感心したホイットフィールド船長は、万次郎に教育を受けさせようと考えてアメリカに連れ帰り、生活の面倒を見ながら学校に通わせました。アメリカで英語や航海術を学び、周囲の愛情を受けて成長した万次郎。しかし、次第に望郷の思いが募ります。帰国を決意した万次郎はその資金を自力で稼ぎ、故郷を離れて10年後の24歳で日本に戻りました。語学力や海外経験を評価されて旗本に取り立てられると、船長や仲間たちの恩に報いるために開国を訴え、日米修好通商条約の批准書交換に向かう咸臨(かんりん)丸にも乗船。航海士としての手腕も発揮したのでした。身分の上下や貧富の差を気にせず平等に人と接したという万次郎。その原点はアメリカで触れた深い慈愛にあるようです。

【奇策と忠義の風雲児:「高杉晋作」】《平成30年7月掲載》

幕末の混乱期、新時代への道を開いた高杉晋作は1839年、現在の山口県萩市に生まれました。家は代々毛利家に仕える長州藩の名家で、父・小忠太も要職に就いていました。10歳の頃、天然痘にかかり九死に一生を得た晋作は、その後遺症であばた顔となってしまいます。それを周囲にからかわれた悔しさがバネとなり、負けん気の強さや逆境で力を発揮する胆力を育てたといわれています。13歳になると藩校の明倫館に入学するも旧態依然とした学問の内容に物足りなさを感じます。そして18歳で松下村塾に入門、吉田松陰の教えに出会い大きく成長したのでした。その後、藩主の世話役となって本格的に藩政に関わるようになった晋作は、視察で上海を訪れます。そこで欧米列強の支配を目の当たりにし、幕藩体制が大きく揺らぐ日本の状況に危機感を覚えたのでした。晋作が倒幕を強く訴える中、長州藩は幕府や欧米列強と対立します。藩が敗戦の危機に瀕するたびに、晋作は奇兵隊で庶民の力を活用したり、意表を突く講和談判をしたりと奇想天外かつ大胆不敵な手法で藩を救います。盟友である伊藤博文には「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された晋作。自身は「人は旧を忘れざるが義の初め」という言葉を遺しています。情熱と機転と行動力を持ち、忠義の心で幕末を走り抜けたわずか27年間の生涯でした。

【あくなき向上心の果てに:「足利義満」】《平成30年6月掲載》

南北朝の統一に成功した足利義満は1358年に足利義詮(よしあきら)の嫡男として生まれました。室町幕府初代将軍で、朝廷を南北に分かつこととなった足利尊氏は祖父にあたります。尊氏が将軍の器には不足な義詮の姿に不安を抱きながら逝去した約100日後に誕生した義満は、幕府再建の宿命を背負って10歳にして征夷大将軍に就任。南北朝の統一を目指す義満は、朝廷で天皇に次ぐ高い地位にいた日野家から正室を迎え、公家社会の実力者である二条良基から礼儀作法や和歌などの文化教養を学びました。当時、政治の中枢は朝廷が握っていましたが、義満は裁判や商工業の権利も掌中に収め、次第に朝廷をしのぐ影響力を持つようになっていきます。そして34歳の頃、半世紀以上にもおよぶ南北朝の分裂に終止符を打ったのでした。野心はこれにとどまらず「日本国王」の称号を得て、明(みん)との勘合貿易も始めます。こうして天皇家をもしのぐ権力を手に入れた義満ですが、50歳で急病により突然にその生涯を閉じます。義満の死後、第4代将軍となった義持は、義満の政治をことごとく否定。明との貿易も中止し、武家中心の政治に切り替えました。圧倒的なカリスマ性を持ち強権的だった父・義満の政治手法は父にしかできないという決断が、150年以上にわたる足利政権の安定につながったのかもしれません。

【豊かな教養で乱世を生き抜く「細川幽斎」:】《平成30年5月掲載》

戦国の混乱を生き抜き細川家を大大名に導いた細川幽斎(ゆうさい)は、織田信長と同じ1534年に生まれました。室町幕府の幕臣の次男として13代将軍・足利義輝に仕え、時に都を追われながらも信長と組んで足利義昭を15代将軍に就任させることに成功します。しかしその後は反信長の姿勢を取る義昭と距離を置き、織田家の家臣となったのでした。本能寺の変で信長が自害したとき、幽斎の嫡子・忠興と明智光秀の娘・ガラシャは信長の命令で結婚しており、秀光とは長年の戦友でもあったため光秀から応援の依頼が届きます。しかし幽斎は剃髪(ていはつ)し信長に弔意を表すと家督を譲って一線から退くことで秀光には協力しないことを表明します。その後、和歌や連歌など文芸の才があり公家社会にも顔が広かった幽斎は、豊臣秀吉の参謀として力を発揮します。秀吉の死後、66歳で迎えた関ヶ原の戦いでは東軍の家康側につくことを決断。忠興も戦功を挙げ、細川家は東軍の勝利に貢献したのでした。結果、細川家は加増により39万石の大大名となり、幽斎の品格と教養の高さは後の当主たちにも引き継がれていきました。権力や金銭への欲はなかったといわれる幽斎ですが、情報収集力と時勢を読む冷静さ、時に冷徹にも見える判断を下すことのできる決断力が、今に続く細川家の伝統を築く礎となったのでしょう。

【教育が国の未来を創る:「島津斉彬」】《平成30年4月号掲載》

 薩摩藩の発展に寄与した島津斉彬(なりあきら)は1809年、江戸の薩摩藩邸で生まれました。外国船が日本に来航し、江戸幕府の鎖国体制にほころびが見え始めた頃です。この時期はイギリスを皮切りに産業革命が起こり、後に斉彬も薩摩で殖産興業政策を展開して日本近代化の礎を築きました。そんな斉彬の才能を見いだし、かわいがったのが曽祖父・重豪(しげひで)でした。早くから異国の文化や学問に注目した重豪は、中国語を話し辞書まで作ったといいます。シーボルトが江戸に来た折には、若い斉彬を従えて面会し斉彬が海外に目を向けるきっかけを作りました。島津家の後継者として期待されながら父・斉興(なりおき)がなかなか家督を譲らず、斉彬が藩主になったのは42歳の頃でした。江戸の暮らしが長かった斉彬は、薩摩の家臣たちを見て学問が足りないと感じ、さまざまな教育施設を実行します。「学問を好まぬ藩主は国家の大罪人」「学問のあり方は政治の根本」との信念から、自らも国内外の知識を貪欲に吸収しました。民衆の暮らしの安定にも尽力し農業や火砲鋳造、ガラス生産などの産業振興を進めます。49歳の若さでこの世を去った斉彬ですが、大久保利通や西郷隆盛など優れた人材を多く輩出し、斉彬の遺志を継いだ彼らは、明治維新を通じて斉彬が描いた日本の近代化を実現したのでした。    

【義を貫く:「上杉謙信」】《平成30年3月号掲載》

川中島の戦いなどで知られる連戦連勝の武将・上杉謙信は1530年、越後守護代・長尾為景の四男として生まれました。当時の武家では末子を僧侶にする習慣があったといわれ、謙信も幼くして禅寺に修行に出されます。7年間にも及ぶ厳しい修行に耐えた謙信ですが、家督を継いだ兄は武将には向かず、反乱を画策する家臣も現れます。

城に呼び戻された謙信は、反旗を翻した家臣一族を滅ぼして、その名声は高まります。その後、対立していた兄とも和解すると18歳頃に家督を相続。生涯の居城となる春日山城に入ったのでした。永遠のライバルであった武田信玄と数回にわたり戦を交えた川中島の戦いですが、その初回は謙信が23歳の頃でした。精力的に領土拡大を図っていた武田信玄に所領を追われた諸将たちが、謙信に助けを求めたことが発端だったといいます。戦乱の世にありながら領土拡大への野心は薄く、戦をするのは自陣が攻められたときと助けを求められたときだけでした。家臣たちにも「戦うのは義を貫くため」と説き、そのことが家臣たちの結束を強めていました。「心を証とせず取りはやし言成したることは、必定弱きことなり」とは「自分の心を証とせずに大げさに言ったり作り上げたことでは、人の心を打つことはできない」という意味です。正義感と義侠心にあふれる謙信が残した名言です。

【変化に遊ぶべし:「松尾芭蕉」】《平成30年2月掲載》

俳諧を芸術の域に高めた俳聖・松尾芭蕉は1644年、現在の三重県伊賀市に生まれました。江戸時代初期の元禄文化が花開く頃、同じ時代に世の称賛を集めた文学人には近松門左衛門や井原西鶴がいます。18歳頃に俳諧好きな武家の嫡子に仕え、本格的に俳諧の修行を始めたものの、当主の早世により20代前半で無職となりました。世間も就職難で、学問や武芸で身を立てることは難しいと考えた芭蕉は、俳諧で世に出ることを目指して打ち込みます。20代後半、京都で出版される俳諧集に選ばれるなど実績を積んだ芭蕉は、意を決して江戸に出ます。当時、京都や大阪には新人が入り込む余地はなかったため、新興の地である江戸を選んだのです。臨時の職に就いて食いつなぎながら33歳でプロとして認められる俳諧宗匠(はいかいそうしょう)の地位を獲得。瞬く間に江戸屈指の人気の宗匠となりました。しかし36歳で突如、華やかな世界から身を引き、深川の草庵にこもります。当時の作風に行き詰まりを感じていた芭蕉は、経済的にも困窮し孤独に身を置きながら新たな作風を模索しました。芭蕉と名乗り始めたのは38歳、「おくのほそ道」の旅に出たのは45歳の頃でした。「人は変化せざれば退屈する本情なり」との言葉を残し、自身の句風も幾度か変化させています。俳諧に人生を捧げ、旅に生きた50年の人生でした。

【知恵と機転の実務家:石田三成】《平成30年1月掲載》

豊臣秀吉を支え、関ヶ原の戦いでは徳川家康に真正面から対峙した石田三成は1560年、現在の滋賀県長浜市で生まれました。父親に似て勉強家であり、3歳から寺で学問修行を始めます。今も知られる「三献の茶」のエピソードをきっかけに秀吉に力量を見いだされ、側仕えとして召し抱えられたのが14歳頃といわれています。その後の三成は、有能なる事務官としての才能を発揮し、秀吉の側近として活躍。秀吉政権下、経済基盤を固めるための太閤検地と治安を維持するための刀狩りは、三成の具申によって行われたともいわれています。そんな三成の大きな転機となったのが、秀吉の死でした。主君・秀吉のため、私欲を捨てて滅私奉公していた三成は、秀吉の遺志を無視して独断専行を始めた徳川家康に反発、関ヶ原の戦いへと突入したのでした。関ヶ原の戦いに敗れたのち、三成の居城・佐和山城に入った東軍の兵たちは、その城内のあまりの質素さに驚いたといいます。金銭欲がなかった三成ですが、人材集めには貪欲でした。禄高(ろくだか)がわずか4万石だったときに名参謀となる島左近を2万石で招くなど、優秀な家臣を召し抱えるためには厚待遇を惜しみませんでした。強い組織を作るため、私腹を肥やすことはせず人材に投資する。生きたお金の使い方を心得ていたリーダーは40歳でその生涯を終えました。

【徳川の治世を盤石に:徳川家光】《平成29年12月掲載》

徳川家康を祖父に持つ江戸幕府3代将軍・徳川家光は1604年、江戸城西の丸で2代将軍・秀忠の長男として生まれました。生まれながらに将軍の座を約束されていたはずが、弟・忠長が生まれると状況は一変。両親は忠長を偏愛し家光は親に愛されず、家臣にも軽んじられて不遇の幼少期を過ごします。事態が変わったのは家光が11歳の頃。祖父である家康が徳川家の跡継ぎとして家光を指名したのです。19歳で3代将軍に就任するも当時はまだ父・秀忠が権力を握っていました。28歳の頃、秀忠の死去を契機に家光の親政が始まると、その手腕を発揮していきます。軍備の再編、武家諸法度の改定、諸大名の大規模なお家取り潰し、江戸江戸城普請により大名の財政をひっ迫させるなどの大名統制、島原の乱を受けての鎖国政策の強行など、徳川の治世を盤石にしたのでした。こうした幕藩体制の強化と並び、家光の偉業として知られるのが日光東照宮の大造替です。家康を祭るために秀忠により創建された日光東照宮は、当初かなり質素だったそうです。家光は巨額の費用を投じ50棟を超える社寺に「陽明門」「三猿」「眠り猫」などを建造。これは現在では高い歴史的価値が認められ、1999年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。自分を将軍にしてくれた家康への感謝と尊敬が、家光をこの大事業に向かわせたようです。

【律儀さで築いた加賀藩の礎:前田利家】《平成29年11月掲載》

加賀百万石の祖となった前田利家は、尾張国・荒子城の城主、前田利春の四男として1537年に生まれたといわれています(諸説あり)。同じ頃に豊臣秀吉も生を受けており、後に利家は、天下人となった秀吉の厚い信頼を得ることとなります。利家の父が織田信長の父・信秀に仕えていたことから、幼くして信長に仕え始めると、初陣で敵の首を討ちとり信長への忠誠を示します。

しかし思わぬトラブルがきっかけで織田家を追われ、その後、約2年間にわたり不遇の浪人生活を送ることになります。この間、利家は多くの書物に触れて見識を深め、人間的に大きく成長します。その後、戦功を認められ織田家帰参を許されると頭角を現し38歳で領地を与えられて大名となり、能登一国を任されるようになります。本能寺の変で信長が没した後、織田家の後継を巡って恩人・柴田勝家と親友・豊臣秀吉が争った賤ケ岳(しずがたけ)の戦いでは、どちらにつくか苦渋の選択を迫られた利家でしたが、最終的に秀吉に臣従。金沢城に拠点を置いて領国経営にも手腕を発揮し、栄華を誇った加賀百万石の礎を築きます。そんな利家の人柄は、とにかく律儀だったとか。短気な一面もありつつ義理堅く細やかな心配りも欠かさない利家は、周囲の人望を集めました。正妻・まつを大切にし、妻の力も上手に借りて出世を遂げた62年間の生涯でした。

【坂東の統一を目指して:平将門(たいらのまさかど)】《平成29年10月掲載》

将門の乱で知られる平将門。その出自は明らかになっていませんが、903年頃に生まれたといわれています。平安京に都を移し、貴族政治の礎を作った桓武天皇の末裔(まつえい)で、祖父は上総国(かずさのくに)の国司として赴任し、任期後もその他にとどまり財力や武力を蓄えていきました。

父・良将(よしまさ)も鎮守府将軍として東北の異民族をよく納めていたものの、将門が幼いうちに逝去します。跡目を継ぐことになった将門は、一族の隆盛を目指して京に活躍の場を求めたのでした。しかし、親の後ろ盾もなく田舎の出であった者に出世の芽はなく、京の上流貴族社会は居心地の悪いものでした。そしてこの頃、伯父・国香(くにか)らによる相続争いが巻き起こり、将門は志半ばにして郷里に帰るのでした。自らの強い武力により相続争いを収めた将門は、その勢いのままに国を治める国府をも攻撃します。こうして坂東(関東)8カ国の国府を次々に攻めて国司を追放すると、自らを新しい天皇「新皇」と称するようになったのです。しかし、朝廷がこれを黙って見ているはずもなく、藤原忠文を征夷大将軍として将門を討つように命じます。その鎮圧軍が到着する前に将門は流れ矢に当たり落馬し、首を斬られます。貴族による政治がほころび始め、武士が力を持ち始めるきっかけを作った30数年間の人生でした。

【不遇乗り越える執念:後醍醐天皇】《平成29年9月掲載》

公家一統を目指し鎌倉幕府討幕に執念を燃やした第96代の後醍醐天皇は1288年、後宇多天皇の第2皇氏として生まれました。

武家政権であった鎌倉幕府に政治の主導権を握られ、朝廷の権威が失墜しつつある時代に生を受けたのです。折しも1274年、1281年の二度の元寇により鎌倉幕府の体制には揺らぎが生じ始めていました。

執権・北条氏が力を強める中、30歳で天皇に即位。当初は父である後宇多が院政を敷いていたため思うような政治ができませんでしたが、父が引退すると身分にとらわれない人材登用などの改革に着手します。同時に幕府を倒して朝廷の権威を取り戻そうとする同士を集め、密かに討幕の計画も進めました。しかし、36歳の頃に計画が発覚して側近が捕らえられます。この後も執念深く討幕を画策しますが、この動きも幕府の知るところとなります。43歳の頃に企てた元弘の変では幕府に追われる身となり、翌年には捕らわれ廃帝となって隠岐に流されます。それでも野望は捨てず隠岐を脱出。足利尊氏の帰順もあって鎌倉幕府を滅亡に追い込みます。しかし、その後に手掛けた建武の新政は天皇や公家の利益に偏り、武士や庶民の失望を招いて崩壊。尊氏とも袂(たもと)を分かち、南北朝時代へと突入します。類まれな行動力と不屈の精神で己を貫き51歳で人生を閉じた、異才の天皇でした。

【自由と公益を求めて:板垣退助】《平成29年8月掲載》

自由民権運動をけん引した板垣退助は1837年、乾(いぬい)家の嫡男として高知城下で生まれました。31歳の頃に戊辰戦争が始まると土佐軍の重責を任されて甲府城に入ります。武田信玄の家臣であった板垣信方を先祖にもつ退助は、甲斐の人々の心をつかむために乾から板垣へと姓を改めます。江戸城無血開城の後も抵抗を続ける奥州各地を鎮静化するべく会津へと軍を進め、会津藩を降伏させました。このとき会津藩の敗因は武士と民衆が一致団結しなかったことにあると感じ、人民が全て平等でなければ豊かな国づくりは難しいと痛感します。これは後に、ごく一部の権力者が実権を握る政府に疑問を抱き、自由民権運動を起こすきっかけになったといわれています。権力集中に反発し「民撰議院設立建白書」を提出して国会開設に挑んだ退助。刺客に襲われるという災難に遭いながらも志を貫き、民衆の支持も得ながら61歳で大隈重信と共に日本初の政党内閣を設立します。しかし、内部分裂などにより4カ月で内閣は崩壊。政界を引退し、その後は庶民の生活向上に向けた社会活動に私財を投じて身を捧げました。盲人の按摩(あんま)専業を訴え、女囚の乳児を養育するなど、弱者を救済し自由と公益を追い求めた82年の生涯でしたが、生前には「自分はただ誠心誠意、国に尽くしたに過ぎない」と述べるにとどめました。

【天下布武(てんかふぶ)に込めた思い:織田信長】《平成29年7月掲載》

天下統一の野望を抱き、戦国の世を疾風怒涛のごとく駆け抜けた織田信長は1534年、尾張守護代の家老・織田信秀の嫡男として生まれました。26歳の頃、桶狭間の戦いでは数千の浜で数万の今川義元の軍勢を破ってその名を広く知らしめ、33歳で美濃国主・斎藤龍興を滅ぼして美濃を平定します。このとき信長は「井ノ口」と呼ばれていた一帯の地名を「岐阜」に改めます。岐阜という地名は、若き信長に知識と思想を授けた禅僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)が提案したといわれ、中国古代史に由来します。「岐」は周の文王が岐山から天下を平定したこと、「阜」は学問の祖である孔子の生誕の地・曲阜(きょくふ)にちなんでいるといいます。信長の本拠地となった岐阜には、平和と学問の都という意味が込められていたのです。また信長がスローガンとして掲げた「天下布武」という言葉は一見、力ずくで天下を統一するといった意味に取られがちですが、その真意は違っています。同じく沢彦の進言といわれるこの言葉は『春秋左氏伝』に記された「七徳の武を備えた者が天下を治める」ことに由来し「七徳の武を備える平和な国づくりを目指す」というのが本来の意味です。「武」という文字には争いを防ぐという意味があり「暴力を使わず、徳をもって世の中を治めていこう」という信長の決意が表れていたようです。

【常勝将軍:源義経】《平成29年6月掲載》

壇ノ浦の戦いで平氏を打ち取るも、実兄・頼朝の不興を買い非業の死を遂げた源義経は1159年、源義朝と常盤御前との間に生まれました。義経が生まれた年に平治の乱が勃発、生まれて1年足らずで父は平氏に敗れて無念の最期を迎えます。こうして生まれながらにして一家離散という不幸な境遇に置かれた義経は、母とも引き離され、僧になる修行をするため10歳で京都の鞍馬寺に預けられます。ここで初めて自分の父親が平氏に敗れたことを知り、父の敵討ちを心に決めて鞍馬の山奥で密かに剣術の修行に励みました。15歳の頃、このまま出家してしまったら平氏打倒を果たせないと考え、つてを頼って奥州に向かい藤原秀衡(ひでひら)に保護されます。ここでさらなる鍛錬を積んだ義経は、頼朝が平氏討伐に打って出たという報せ聞き、頼朝のもとに駆け付けたのでした。ここから軍略家としての才能を開花させたものの、平氏討伐最大の功労者となる一方で頼朝との間に生まれた溝は埋まることなく、武将として活躍したのはわずか2年、30歳という短い生涯を終えました。義経は、セオリーに捉われない革新的な戦術で知られていますが、相手の裏を突く「兵は詭道(きどう)なり」や、スピードと機動性を重視した「兵は拙速(せっそく)を尊ぶ」といった兵法は、現代のビジネスにおいても参考になっています。

【戦わず勝つのが兵法なり:武田信玄】《平成29年5月掲載》

戦国時代最強の武将として活躍した武田信玄は1521年、甲斐国の守護・武田信虎の嫡子として生まれました。粗暴で無学であったといわれる信虎は、力で民を支配する悪政を敷き、学問好きで優秀な信玄を疎んじるようになります。この状況を憂えた重臣たちは信虎を見限り、信玄を擁立して無血クーデターを実現。信玄が20歳の頃に信虎を追放し甲斐国主となります。山本勘助を足軽大将として登用するなど、後に「武田二十四将」とも称される最強の家臣軍団を率いた信玄は、武士と農民を差別しない平等主義を掲げ、家法を定めて領地を法治国家とするなど優れた治世者として今なお山梨の人々に愛されています。そんな信玄の政治哲学の根幹にあったのが、王道思想だといわれています。中国の戦国時代の代表的な思想家・孟子が体系化したこの思想は「民こそが国家の財産とし、君主に過ちがあれば臣下が誡め、聴かなければさらに誡め、どうしても聴き入れなければ、君主を取り換えても構わない」としています。また部下に対して常々「戦死は名誉ではあるが善法ではない」と説き、「能く(よく)戦う者は死なず」という言葉も残しています。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という信玄の言葉にも、民を大切にし家臣を思いやりながら正義を貫いた人間性が感じられます。

【日本国家の未来のために:勝海舟】《平成29年4月掲載》

江戸城無血開城を実現し「日本海軍の父」ともいわれる勝海舟は、1823年に江戸で生まれました。父は旗本ながら終生無役で家は貧しかった海舟ですが、17歳の時に世界地図を見てその広さに驚き、まだ見ぬ世界を知ることが重要と悟ります。そこで独学でオランダ語を学び、全58巻から成る辞書『ヅーフ・ハルマ』を借り受けて筆写します。さらにオランダの兵学書までも、持ち主の家へ深夜に通い半年間で全て写し終えました。これらの書物が、海舟の海防論形成や国際情勢を見る目を養ったのです。そして30歳の年にペリーが浦賀に来航、危機感を抱いた幕府は対外政策の意見を広く募ります。自らの存在をアピールし、幕府に仕官する道も開けると考えた海舟は「海防意見書」を提出します。その内容は、身分を問わない優秀な人材の登用、江戸湾の防備、軍艦の建設など、日本の国防や外交の将来に向けたものでした。これが認められ32歳という遅咲きで世に出ます。その後は幕臣の立場でありながら、開国の必要性を説き、坂本龍馬や西郷隆盛など倒幕の志士とも関わりを持ちつつ江戸城無血開城を実現したのです。「事を遂げる者は、愚直でなければならぬ」という海舟の言葉からは、不遇の立場に置かれながらもそれを悲嘆せず、国家の未来を大局的に見据え、真摯(しんし)に事に当たった生き様がうかがえます。

【領民を愛した戦国の知将:明智光秀】《平成29年3月掲載》

戦国の知将と呼ばれ「本能寺の変」で知られる明智光秀は、1528年に土岐明智家の嫡男として、美濃国(現在の岐阜県可児市)に生まれたといわれています。(所説あり)。1556年斎藤道三の息子・義龍の攻撃により明智城を追われて諸国遍歴の旅に出ます。その後、越前一乗谷の守護大名・朝倉義景に仕官した光秀は、「第二の京」ともいわれた優雅で文化的な一乗谷で教養を深め、朝廷や将軍家につながる人脈を築きました。そして、しばらくすると転機が訪れます。13代将軍・足利義輝が暗殺されると、室町幕府と縁が深い土岐家出身の光秀は将軍家復興を目指します。ここで光秀が見込んだのが織田信長でした。信長は義輝の弟・義昭を奉じて将軍家を復興、光秀は信長の家臣として頭角を現していくのです。比叡山焼き討ちのような意にそわない命にも忠実に従い出世を遂げた光秀でしたが、理不尽な領地召し上げなどで信長に対する不信を募らせ、本能寺の変に踏み切って非業の死を遂げたのでした。「仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という。土民百姓はかわゆきことなり」と語っていたという光秀。反逆者のイメージが強いですが、各所領では民の生活に細やかな配慮をし領民に尊敬されていました。丹波や近江地域では光秀に由来するお祭りや団体も設立され、再評価する動きもあるようです。

【信念を貫き通した人生:日蓮】《平成29年2月掲載》

法華経の教えを広め今に受け継がれる日蓮宗の基礎を築いた日蓮は1222年、千葉県安房郡小湊(現在の鴨川市)の漁師の家に生まれたと伝えられています。鎌倉時代の初期、戦乱や地震、疫病といった災厄が続き、人々は「仏の恵みも届かぬ末法の世」と思い悩んでいた頃でした。日蓮は11歳で清澄寺に入山し、住職・道善房を師として初等教育を受けます。ここで当時、流行していた浄土宗に触れ当初は信仰していたものの「死後に極楽浄土に行ける」という教えに疑問を抱きます。15歳で出家して仏教を学ぶために遊学を始めた日蓮は、鎌倉で浄土宗や禅宗を学び、その後、法然や親鸞、道元らも学んだ天台宗の総本山・比叡山を拠点に修学を重ねます。この頃に膨大な量の仏教書籍『一切経』も読破。全ての経典の中で法華経が最も尊いという確信を得た日蓮は、法華経信仰を広めることを決意し31歳で立教開宗しました。来世での救済を説く浄土宗を厳しく批判して「現世にこそ救いの道がある」と訴えます。他の宗派を許さず『立正安国論』を上程して国に対しても強く自身の信念を訴えますが、浄土信者や幕府から厳しい迫害を受け、衣食にも事欠く貧しい生活の中60歳でこの世を去りました。「まず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」という言葉からも、国を救おうという強い信念と信仰の深さが感じられます。

【世界の道は早稲田に通ず:大隈重信】《平成29年1月掲載》

明治の初頭、政治と教育に情熱を捧げ日本の近代化を推進した大隈重信は1838年、佐賀藩の武士の家に生まれました。幼い頃に父が病死したため母の手で育てられた重信は、佐賀藩の藩校・弘道館に学び、その後に宣教師であるフルベッキから英学を学びます。30歳の頃、日本でのキリスト教徒の扱いをめぐってイギリス公使と論争、その交渉手腕が高く評価されました。その後、政府に入ると財政再建や富国強兵に取り組み、通貨単位「円」の制定や鉄道敷設を実現しました。そして、政治に並んで注力したのが教育です。政府を追われ下野した後に、44歳で東京専門学校、現在の早稲田大学を設立します。この頃、立憲改進党を立ち上げていた重信は、日本の将来を担う若者の育成も重要だと考えていたのです。このとき掲げた教育理念は「学問の独立」でした。当時、学問といえば西洋のそれを指していた状況を大変憂慮していたといいます。「一国独立の基礎は自主独立の精神にあふれた国民の形式にある」として学問の独立を目指すとともに「権力の下に支配されず、独立して意の向かうところへ赴くことが必要である」とも考えていました。「若い人は高尚なる理想をもたなければならぬ」「その理想を行うという勇気がなければならぬ」という重信の言葉は、現代の若者にはどのように響くのでしょうか。

【心をつかむリーダーシップ:足利尊氏】《平成28年12月掲載》

武士のリーダーとして室町幕府を成立させた足利尊氏は1305年、現在の京都府綾部市に生まれました。家は清和源氏の嫡流(ちゃくりゅう)を受け継ぐ名門。当時、鎌倉幕府の実権は平氏の流れをくむ北条家が握っており、足利家には天下取りへの野望が息づいていました。1321年に院政が廃止され、後醍醐天皇による天皇親政が始まります。長く政治の実権を握ってきた幕府を打倒しようという後醍醐天皇の動きを通して、尊氏は各地に反幕府勢力が存在することを実感します。そして1333年、倒幕の兵を挙げた尊氏は六波羅探題を壊滅させて鎌倉幕府は滅亡。その後、後醍醐天皇による建武の親政が始まりますが、戦乱で疲弊した民衆に重税を課したり、武士の所領を突然取り上げたりして反発や混乱を招き親政は頓挫してしまいます。ここで尊氏は、親政に不満を抱く武士たちを味方につけ、後醍醐天皇に反旗を翻し武士による政権である室町幕府を興します。尊氏をここまで至らしめたポイントは、情報を持っていたことと武士の要望を知っていたことでした。当時、足利家は全国に30超の所領を持ち、各地の武士が幕府に不満を抱いていることを把握していたのです。また「御恩と奉公」という言葉に表されるとおり、武士に所領を保証することの重要性を見抜いていました。心をつかむことで勝利をつかんだのです。

【為政清明(いせいせいめい):大久保利通】《平成28年11月掲載》

幕末から明治の激動の時代、命を賭して新しい日本のために尽力した大久保利通は1830年、薩摩藩の下級武士の家に生まれました。学問を好み、身分にこだわらずに農民や町民とも交流した父や、海外事情に通じ先進的な思想を持つ祖父の血を引いたといわれる利通は、その才覚をいかんなく発揮。強い信念のもと知略を用いて倒幕、王政復古のクーデターを成功させて明治政府を樹立します。多くの士族の反感を買いながらも廃藩置県などさまざまな改革を断行し外交でも手腕を発揮しますが、志半ばにして暗殺され非業の死を遂げたのは47歳のときでした。その中で注力したのが「殖産興業」です。42歳の頃に岩倉使節団として約1年10カ月に渡り欧州を視察した利通は、同じ島国で繁栄していたイギリスに特に興味を抱きます。イギリスの高い生産力や発展ぶりに触れて感嘆するとともに、イギリス発展のポイントは工場と貿易にあると分析し帰国後、その知見を生かします。その後、政府の中枢である内務卿に就任すると、日本初となる内国勧業博覧会を開催。富岡製糸場など官営工場も設立し、官民あげて殖産興業に取り組むことで日本は近代国家への道が開けたのです。冷徹非情と非難されながらも志を貫いた利通の政治理念は「為政清明」。清く明るく堂々と政治に向き合う真摯な姿勢がうかがえます。

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